終電に何とか間に合ったものの、寝過ごしてしまい結局家に帰れなかったことがあります。
まてんろうです。
気がつくと終点でした。
電車の中というのは公共の空間であり「外」なわけですが、そこでそこまで油断して深い眠りに落ちられるというのは、それだけ平和だということで、いいことなんだと思います。
最近は電車の中で化粧をする、食事をするといったことも、割と見かけられる光景になってきて、モラルが低下しているのか、はたまた、より世の中が平和になってきているということなのか、何とも複雑なカンジです。
かく言うまてんろうも、今、電車内でノートパソコンを広げてこの原稿を書いているわけですが…
こういうマナーは、多くの人が生きやすいようにその時代の社会が醸成する暗黙の合意のようなもので、親から子へ伝承していくものなんだろう、とまてんろうは思っていて、その考え方でいけば、一度崩れだすと子の世代、孫の世代とどんどん崩れていき、いずれ無くなるんだろうと思います。
そういう意味では、前述の「電車の中では化粧をしない」「電車の中ではものを食べない」なんかは、いいとか悪いとかではなく、必要が無くなりつつあるマナー、ということなのかもしれません。
逆に電車内で感じる「迷惑」の側にも、時代に影響されない「普遍的な迷惑」と「そうでない迷惑」があるようで、年々変化していっているようです。
アンケート結果では、9年連続で「騒々しい会話・はしゃぎまわり等」が1位となりました。また、「座席の座り方」が2年ぶりに2位となり、そのうち多くの人が「座席を詰めて座らない」行為を迷惑と感じていることが読みとれました。
「歩きながらの携帯電話・スマートフォンの操作」なんていうのは、昭和の時代には無かった迷惑なので、これに対するマナーは、迷惑に伴って新しく生まれたマナーということですよね。
「迷惑あるところにマナーあり」
そう思うと、なんか面白いですよね。
ところで「電車では、降りる人が先、乗るのは後」というマナーも、最近ではあまり聞かれなくなったように思います。
まてんろうは子供の頃、親にそれを教えられ、「どうして?」と理由を尋ねた記憶があります。
「ドアが開いて、先に乗る人が入ると、降りる人が降りられなくなって、遠くまで行っちゃうと困るでしょ」
「じゃぁ、降りる人のせいで、乗る人が乗れなかったら?」
「次のに乗ればいいでしょ」
その「マナーの理由」に納得したまてんろうは、長らくその理由の元にマナーを守って生きてきました。
社会人になってから先輩にこの話をすると、「???」という顔をされました。
「降りる人が先なのは、客車の容積の問題でしょ? 単純に、降りることでスペースが空くから、そこに乗ることができるってだけの話だと思うんだけど…」
その話を聞いて、「あ、確かにそうだ!」と、何かすごいことを発見したかのような、脳内に流れる強烈な電流を感じた記憶があります。
そんな簡単なこともわからなかったと恥ずかしく思う反面、しつけのために子供でも理解でき、納得できる理屈をくっつけた自分の親に、今さらながらに驚き、また、それに対してなんの疑いも感じず信じ切っていた自分にも驚きました。
ちなみに後年聞いたところによると、親は方便ではなく、本当にそう思い込んでいたようで、なぜそういう理由を信じているのかもわからないとのことでした。
子供にウソを教えることは良いことではありませんが、方便であっても、「なぜ?」に子供が納得して理解できれば、それがマナーを覚えるきっかけになり、あたり前のこととして一生守ることができるのかもしれません。
電車内で大声で携帯電話で話す年配の御婦人を見ながら、ふとそんなことを思いました。
まてんろう
プロの妄想家で俳人。長年、妄想でメシ食ってます。
自己紹介はコチラ
twitter(@mat10ro)フォローいただけると幸いです
steemit(@matenro)自由律俳句を詠んでいます
こちらの記事、お気に召しましたら、シェアいただけると幸いです。