わざわざ野村芳太郎監督作品を見なくても、近所で「人の業」は感じられると思います

学生の頃、受験に失敗して、友達の親に「ザマァ見ろ」と言われたことがあります。

まてんろうです。

まてんろうの人生のテーマのひとつに「人の業とは何か?」を探求する、というものがあります。

業(ごう、梵: karman)とは、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語。仏教およびインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。

業 – Wikipedia

いろんな解釈があり、とても捉えにくい概念ですが、今のところ「何故そのようなことをしたのか簡単には説明できない、複雑な人の心とそれによって行われた行為」というようなカンジかなぁと、まてんろうは考えています。

普通に考えると「A」が正しいのですが、それを頭ではわかっていても、「B」という行為をしてしまう。

劣等感であったり、行き過ぎた自尊心であったり、怨恨であったり、承認欲求であったり…といった、複雑な心の動きが絡み、思わずやってしまう、あるいはせざるを得ない行為。

ここにまてんろうは「業」を感じてしまうのです。

松本清張の長編推理小説「砂の器」の犯人の犯行動機には、まさにこの「業」を感じます。

この作品は1974年に野村芳太郎監督によって映画化されるのですが、この「業」を非常に上手く映像化しており、もう100回くらい見ている大好きな映画です。

野村芳太郎監督作品には松本清張作品を映像化したものも多く、他にも「張込み(1958年)」「ゼロの焦点(1961年)」「事件(1978年)」「鬼畜(1978年)」「わるいやつら(1980年)」「疑惑(1982年)」といった作品があり、どれも「人の業」を感じさせる名作です。

1952年の『鳩』で監督デビュー。初期は会社の意向に従って喜劇から時代劇まであらゆるジャンルの作品を手掛ける職人監督に徹していた。

野村の名を広めたのは1958年の『張込み』(主演は大木実)。以降ショッキングな描写を伴う社会派的色彩の強いサスペンスを数多く撮るようになり、名作を世に送り出した[2]。

松本清張原作の映画化を多く行い、1974年に監督した『砂の器』ではモスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。

野村芳太郎 – Wikipedia

どの作品でも、いろんな都合で人が不条理な行為を行う様が描かれており、原作の良さをさらに映像としてもう一段上げることができたのは、やはり野村芳太郎監督の人間観察・社会観察が鋭かったということではないかと思います。

2時間近くを費やすので、映画を観ることに対して年々保守的になってきており、観る際には割と監督で選ぶのですが、野村芳太郎監督はまてんろうの中で「間違いない」映画監督のひとりです。

そういえば、最近、家の近くで「人の業」を感じる出来事に出くわしました。

駐車禁止のところに車がズラーッと並び、そこそこいい歳をされた方々が集まって、難しい顔をしながらスマホの画面とにらめっこしているのです。

聞いたところ、某有名コンシューマーゲームから派生した位置情報ゲームをされているとのこと。

ゲーム自体は良く出来ておりゲームに罪はないと思います。

しかし、ゲームに興じるために、普段は善良なはずの方々が自分を見失ってしまうというのは…いささか「GO」が深過ぎるというものではないでしょうか。

 


まてんろうまてんろう

プロの妄想家で俳人。長年、妄想でメシ食ってます。

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